Eテレ「こころの時代」の作家市川沙央さんの回を見た。
市川さんの本は読んでなくて、
ニュースや新聞で見聞きする印象が何だかとがった感じがしてたので、
敬遠してるところがあった。
食わず嫌いだったかな。
番組は、市川さんへの単独インタビューの形で、
彼女が話すのをほぼ正面から撮っている画面がほとんど。
画面のこちら側にいるインタビュアー?の問いに答える形で。
間に彼女の書いた文章の引用朗読があって。
単調な絵面にもかかわらず、
彼女の発する言葉に惹きつけられて、すっかり見入ってしまった。
言葉が出るまでの間(時には30秒以上)も含めてじっくり映されていたので、
彼女の言葉が、考え尽くされて出てきているものであることがよくわかり。
バランス感覚に優れた人、という気がした。
いろんな立場を分かった上でものを言われている感じ。
だから、素直に受け取れた。
病気をもって生きてきた中で、本がどういうものであったか。
文字だけでフェアな闘いを長年してきたこと。
自分でも、病人なのになんでこんなに書いてるんだろう、と思いながら。
震災後に、自分のような存在のことがメディアで見えないことに気づいて、
自分が障害者であることを、意図的に発信したこと。
障害者・当事者が世の中に表現することの少なさについて。
人々やメディアの中での障害者の存在、障害者への見方の偏りについて。
印象に残った言葉がいくつもあった。
「排泄を他人に処理してもらうなんて、私なら耐えられない」
と言う人が世間にはいて、
自分で排泄できないと尊厳が失われる、という言説はとても根深い。
でも、排泄は人間の基本的なことで、排除しなくてもいいのにと思う。
排泄も多様なもので、
人の手を借りる人もたくさんいるけれど、
その程度のことでその人間の尊厳を切り捨てるのは、貧しいこと、
人間は、ヒューマニズムをうたうなら、
その程度のことは、みんなで補い合って共生社会を作るのが当然だと思う。
一番恐ろしいと思うのは、
障害者の親が、子どもより後に死にたいと言うこと。
当事者の人権は、もっと個人としてその命を尊重するべきだと思っている。
今の時代に対して、サン・テグジュベリの
「イデオロギーを論じ合っても、立証し得たとしても、すべては反証し得るのだ」
という言葉を引きながら、
極論が力を持つ時代には、言葉のコミュニケーションが大事。
考え方が違っても、議論はしてもケンカではなくて、
理解を深められると私は思っている。
ケンカになるのはなんでかな。
番組後に書面での追加インタビューで、
「生きることの意味は?」とあったことに対して、
物言う障害者と見たらそういう問いをすることは、やめた方がいいと思う、と言う。
障害者は、どこかへ行くにも理由が求められる、
ふらっとどこかへ出かけるということが許されない。
意味を求められることにうんざりしています、と。
・・・
どの言葉も、今生活している中での市川さんの正直な思いが感じられて、
聞かせてくださって、ありがとう、と思う。
私の中で当たり前だった感覚が、
少し崩された気がしている。